2010年12月25日土曜日
今年の年賀状
正月は実家に帰るので、また遅くなっても何なので先に新年あけましておめでとうございます。と前もって申し上げておきます。
昨年はどうもいろいろな方にお世話になりました。
心の底から感謝しております。
これは鳥獣戯画から選んで描いたのですが、
笑う門には福来るともかけております。
本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。
2010年10月17日日曜日
2010年10月16日土曜日
寺町日巡
今日は中高を共にした友達が東京からこっちに寄ってくれたので、寺町を案内することになった。
ご飯をと言われたのだが、寄ってくれたのはわざわざゆっくり話す時間を作ってくれたということだろうから、料理屋で話すのも何だと思い、寺町にある一保堂さんで玉露を飲みながら話そうと思い立った。
しかし、腹も膨れていないと胃がきついので適当に料理屋を探そうと近辺を自転車で散策した。
少し暑いくらい。快晴。
料理屋を探していたら裏通りの家具屋街に行き着いてしまって、あーあと思っていたら、小さいギャラリーを発見した。
ガラス越しに中が全部透けて見えた。
大きな絵などひとつもなく、なんだか色とりどりの小さい額縁の中に花が一輪あるだけ。何も観るものはないとそのまま通りすぎようとした。
しかし、おや?と思い、自転車を止めた。
こんな奥まったギャラリーでこんなに単純な展示というのがちょっと面白そうだったからだ。
あまり深くは考えなかったけれど、なにかあるぞと思いとりあえず中に入った。
そうするとやっぱり額縁に一輪花があるだけ。だけど、見たこともない感じがして綺麗だった。額は非常に立体的で、余白が計算されているのが素人でもわかる。作品と余白の境界線が立体的な局面で造られていて独特だ。
アーティストの人に話を聞いてみた。
すると、この見たこともない額縁の手法はフランスのロマンティックビュローという方法で作られているとおっしゃった。
「この額縁の余白は微妙な調整がされていて、余白に使われている紙は私の手法を使えばなんでもいいんですよ^^例えば外国でちょっと行った先の目に止まった綺麗なチラシでも、和紙でもなんでも縁の余白にできるんです。」
確かに額縁自体は非常にシンプルだったが、緻密に計算されていて、しかもそんなふうに万能な感じがすごいなぁと思った。
額縁のアーティストだった。
中身の絵に拘る人は多い。みんな一生懸命絵を描く。
しかし、描いたあとでそれを額縁に収めたいという欲求は誰しも起こるのではなかろうか?
それが、その絵のためだけの額縁で余白がその絵にぴったりならその絵も冥利に尽きるのではないだろうか?
すごく新鮮な感じがして話の続きを聞く。
「縁を強調したかったから、花を一輪だけにしましたが、この花も実は一工夫あるんですよ^^」
花は色鮮やか。普通のドライフラワーのようでいて形は咲いた時のままだ。
まるで今咲いているような柔らかさがある。
「この花は特殊な加工がされていて、一旦色を脱色して、形を保存したあとにまた色をつけるんですよ。確かに花の元の色とは違うものになるんですが、記憶を保存することはできますよ^^たとえば結婚式で貰ったブーケ。普通花は数日で終わりですね?でもその花で保存できるものをこうやって一輪インテリアにするだけできっと何年か先でも花は色鮮やかでの人生の彩りも変わってくるんじゃないでしょうか?素敵だと思いません?^^」
確かに、結婚式で貰ったブーケだとはとても思えない生活感があって、自然に部屋に溶け込みそうだ。
そういう風に人生の一ページを残せて置けたらおしゃれだなぁと思ってひどく感動した。
額ひとつとっても、花一輪とっても、人の思いを詰め込むことができるのだとわかった。
僕ももっと生活の身の回りの一つ一つにかける手間や工夫にもっと具体的にどうするかというのを考えたら楽しめそうだと教えてもらった気がする。何気ない部分に手間が隠れていたほうがきっと人生は面白い。(このブログもそんな感じになってくれたら楽しいなぁ・・。)
友達の待ち合わせには5分遅刻してしまった。
ご飯をと言われたのだが、寄ってくれたのはわざわざゆっくり話す時間を作ってくれたということだろうから、料理屋で話すのも何だと思い、寺町にある一保堂さんで玉露を飲みながら話そうと思い立った。
しかし、腹も膨れていないと胃がきついので適当に料理屋を探そうと近辺を自転車で散策した。
少し暑いくらい。快晴。
料理屋を探していたら裏通りの家具屋街に行き着いてしまって、あーあと思っていたら、小さいギャラリーを発見した。
ガラス越しに中が全部透けて見えた。
大きな絵などひとつもなく、なんだか色とりどりの小さい額縁の中に花が一輪あるだけ。何も観るものはないとそのまま通りすぎようとした。
しかし、おや?と思い、自転車を止めた。
こんな奥まったギャラリーでこんなに単純な展示というのがちょっと面白そうだったからだ。
あまり深くは考えなかったけれど、なにかあるぞと思いとりあえず中に入った。
そうするとやっぱり額縁に一輪花があるだけ。だけど、見たこともない感じがして綺麗だった。額は非常に立体的で、余白が計算されているのが素人でもわかる。作品と余白の境界線が立体的な局面で造られていて独特だ。
アーティストの人に話を聞いてみた。
すると、この見たこともない額縁の手法はフランスのロマンティックビュローという方法で作られているとおっしゃった。
「この額縁の余白は微妙な調整がされていて、余白に使われている紙は私の手法を使えばなんでもいいんですよ^^例えば外国でちょっと行った先の目に止まった綺麗なチラシでも、和紙でもなんでも縁の余白にできるんです。」
確かに額縁自体は非常にシンプルだったが、緻密に計算されていて、しかもそんなふうに万能な感じがすごいなぁと思った。
額縁のアーティストだった。
中身の絵に拘る人は多い。みんな一生懸命絵を描く。
しかし、描いたあとでそれを額縁に収めたいという欲求は誰しも起こるのではなかろうか?
それが、その絵のためだけの額縁で余白がその絵にぴったりならその絵も冥利に尽きるのではないだろうか?
すごく新鮮な感じがして話の続きを聞く。
「縁を強調したかったから、花を一輪だけにしましたが、この花も実は一工夫あるんですよ^^」
花は色鮮やか。普通のドライフラワーのようでいて形は咲いた時のままだ。
まるで今咲いているような柔らかさがある。
「この花は特殊な加工がされていて、一旦色を脱色して、形を保存したあとにまた色をつけるんですよ。確かに花の元の色とは違うものになるんですが、記憶を保存することはできますよ^^たとえば結婚式で貰ったブーケ。普通花は数日で終わりですね?でもその花で保存できるものをこうやって一輪インテリアにするだけできっと何年か先でも花は色鮮やかでの人生の彩りも変わってくるんじゃないでしょうか?素敵だと思いません?^^」
確かに、結婚式で貰ったブーケだとはとても思えない生活感があって、自然に部屋に溶け込みそうだ。
そういう風に人生の一ページを残せて置けたらおしゃれだなぁと思ってひどく感動した。
額ひとつとっても、花一輪とっても、人の思いを詰め込むことができるのだとわかった。
僕ももっと生活の身の回りの一つ一つにかける手間や工夫にもっと具体的にどうするかというのを考えたら楽しめそうだと教えてもらった気がする。何気ない部分に手間が隠れていたほうがきっと人生は面白い。(このブログもそんな感じになってくれたら楽しいなぁ・・。)
友達の待ち合わせには5分遅刻してしまった。
2010年10月4日月曜日
徒然なるままに・・・
もう10月。9月は記事を3つしか書かなかった。。。
考えてみると、何も考えていなかったことが分かります。。。
製作中の曲も一段落し、さて、練習してみようかと思って楽譜を見たら、自分の技量を遥かに超えるものを作ってしまっていて、何も出来ないでいる体たらく。。。
とりあえずは、僕の文章に対する考えを少し書いてみようと思う。
日本語には助詞というのがあり、そのニュアンスによって、いろいろな表現ができる。しかし、英語にはそれがないのでかなりデジタルになってしまう。単語と単語のデジタルな表示から意味を汲み取るというのは訓練しないととてもできるものではないと思う。しかし、人はどうしてただの文字の連なりから、他の人の感情を読み取ることができるのだろうか?これは考えてみるととても高度な作業であるように思う。
たとえば、小説を読む。すると、すごく臨場感があり、ハラハラしながら次から次へとページを繰っていくときの高揚感はなんともいえないものだと思う。その気持を他の人と共有したいときは「こんな箇所(表現)があって〜」というふうになるとおもうが、しかし、考えてみると、それは読んだものにしか共有できないし、同じようなイメージを想像出来る人間でなければ、会話自体が全く意味が無いものになってしまうだろう。外国人が日本の長屋をしっていないと長屋という単語が出てきたときに、そのイメージが全くわかないので、おそらく不快感が少しにじむのではなかろうか?
表現というのはおかしなもので、ものすごい情報量のものをただの数十字とか数百字の文字の連なりに圧縮してしまう。擬音語とか擬態語とかはその典型だろう。圧縮された情報を復元するためには、受け手がそれを解読して、膨らませる技術がなければ、当然圧縮された暗号のような文字しかわからないのだ。表現というのは無限に近い情報量を如何に圧縮して、しかもそれを受け手の想像力に委ねてもまた同じように再生できるかということが大きなウエイトを占めているように思えてならない。
アイディアを詰め過ぎると、受け手の想像力が追いつかないがために、評価されない。
なので、受け手の許容量を把握して表現する技術を身につけるということがうまい文章を書くということにつながるのだと思う。
そう考えると、芭蕉という人の17文字に込めた情景は色鮮やかに脳裏に映る。
考えてみると、何も考えていなかったことが分かります。。。
製作中の曲も一段落し、さて、練習してみようかと思って楽譜を見たら、自分の技量を遥かに超えるものを作ってしまっていて、何も出来ないでいる体たらく。。。
とりあえずは、僕の文章に対する考えを少し書いてみようと思う。
日本語には助詞というのがあり、そのニュアンスによって、いろいろな表現ができる。しかし、英語にはそれがないのでかなりデジタルになってしまう。単語と単語のデジタルな表示から意味を汲み取るというのは訓練しないととてもできるものではないと思う。しかし、人はどうしてただの文字の連なりから、他の人の感情を読み取ることができるのだろうか?これは考えてみるととても高度な作業であるように思う。
たとえば、小説を読む。すると、すごく臨場感があり、ハラハラしながら次から次へとページを繰っていくときの高揚感はなんともいえないものだと思う。その気持を他の人と共有したいときは「こんな箇所(表現)があって〜」というふうになるとおもうが、しかし、考えてみると、それは読んだものにしか共有できないし、同じようなイメージを想像出来る人間でなければ、会話自体が全く意味が無いものになってしまうだろう。外国人が日本の長屋をしっていないと長屋という単語が出てきたときに、そのイメージが全くわかないので、おそらく不快感が少しにじむのではなかろうか?
表現というのはおかしなもので、ものすごい情報量のものをただの数十字とか数百字の文字の連なりに圧縮してしまう。擬音語とか擬態語とかはその典型だろう。圧縮された情報を復元するためには、受け手がそれを解読して、膨らませる技術がなければ、当然圧縮された暗号のような文字しかわからないのだ。表現というのは無限に近い情報量を如何に圧縮して、しかもそれを受け手の想像力に委ねてもまた同じように再生できるかということが大きなウエイトを占めているように思えてならない。
アイディアを詰め過ぎると、受け手の想像力が追いつかないがために、評価されない。
なので、受け手の許容量を把握して表現する技術を身につけるということがうまい文章を書くということにつながるのだと思う。
そう考えると、芭蕉という人の17文字に込めた情景は色鮮やかに脳裏に映る。
2010年9月14日火曜日
2010年9月13日月曜日
脳の使用率
脳みその使用率は普通の人で大体20%くらいということを小さい頃テレビ番組が言っていた。
この数字があっているかどうかはわからないが、しかし、そこまで高くはないということにはなんとなく納得出来る。
使用率がその限度を超えると、普段緊急用に溜め込んでいた脳みその残りが動くための余白というのが使用できるように、余白の部分を残しておくのではないだろうか?そのために、リミッターみたいなものがあって、使用率を制限しているように思えて仕方がない。リミッターを解除すると危険領域で脳みそを動かすことになるので当然壊れやすい。
しかし、学者や運動選手はこういったリミッターを自らとっぱらって日常的に仕事をするために、新しいひらめきが降りてきたり、火事場のくそ力がでたりしているのだろうというのが概ね僕の考えです。
高校生の時に比べると計算能力は格段に落ちたこと請け合いではありますが、大学に入って、脳みその使用率はかなり上がったように思えます。
何をするかで脳みその使用率はかなりことなるようなので、そのなにをするかの選択は大事なモノだと思う今日この頃。
この数字があっているかどうかはわからないが、しかし、そこまで高くはないということにはなんとなく納得出来る。
使用率がその限度を超えると、普段緊急用に溜め込んでいた脳みその残りが動くための余白というのが使用できるように、余白の部分を残しておくのではないだろうか?そのために、リミッターみたいなものがあって、使用率を制限しているように思えて仕方がない。リミッターを解除すると危険領域で脳みそを動かすことになるので当然壊れやすい。
しかし、学者や運動選手はこういったリミッターを自らとっぱらって日常的に仕事をするために、新しいひらめきが降りてきたり、火事場のくそ力がでたりしているのだろうというのが概ね僕の考えです。
高校生の時に比べると計算能力は格段に落ちたこと請け合いではありますが、大学に入って、脳みその使用率はかなり上がったように思えます。
何をするかで脳みその使用率はかなりことなるようなので、そのなにをするかの選択は大事なモノだと思う今日この頃。
2010年9月2日木曜日
1と0
これは在るか無いかという話。
小さい頃からものがなんで触れるのだろうか?
とか
そもそも在るってどういうことなんだろうか?
と考えていた。
ある漫画の研究本でこんな空想があった。
「今目でみている世界だけが在る世界なのではないか?」
つまり、視野に入らない世界はその都度消滅して、見るたびに再生されている。不思議なことにそれは今までのものと瓜二つで、人間は世界が再生され続けていることに気がつかない。と。
こういう空想を始めると自分以外の存在は「存在し続けていない」、自分だけが唯一無二の実存になるなどという結論に行ってしまいそうになるので、あんまりおすすめはしないが、しかし、人間の頭ではそう考えても不思議はないということになる。
たとえばこんなことも思う。
ボールが地面に落ちる。
何回もバウンドして止まる。
「しかし、ボールは何回目で止まるのだろうか?」
数学的に考えると、止まる(振動がない)極限まで行くということを考えることはできるが、
いつ有限の動くという状態がが無限の止まるという状態に変換されるかという問題については誰も言及することができない。
1と0のスイッチというのは考えれば考えるほど程遠く違ったものであると思わされることになるのだ。
これ以上話を続けようとすると、難しい数学の話になってしまいそうなのでやめようと思うけれど、結局のところ、人間には「1(在る)」か「0(無い)」かという状態を単なる数の序列と考えるということは不可能であるようだ。
小さい頃からものがなんで触れるのだろうか?
とか
そもそも在るってどういうことなんだろうか?
と考えていた。
ある漫画の研究本でこんな空想があった。
「今目でみている世界だけが在る世界なのではないか?」
つまり、視野に入らない世界はその都度消滅して、見るたびに再生されている。不思議なことにそれは今までのものと瓜二つで、人間は世界が再生され続けていることに気がつかない。と。
こういう空想を始めると自分以外の存在は「存在し続けていない」、自分だけが唯一無二の実存になるなどという結論に行ってしまいそうになるので、あんまりおすすめはしないが、しかし、人間の頭ではそう考えても不思議はないということになる。
たとえばこんなことも思う。
ボールが地面に落ちる。
何回もバウンドして止まる。
「しかし、ボールは何回目で止まるのだろうか?」
数学的に考えると、止まる(振動がない)極限まで行くということを考えることはできるが、
いつ有限の動くという状態がが無限の止まるという状態に変換されるかという問題については誰も言及することができない。
1と0のスイッチというのは考えれば考えるほど程遠く違ったものであると思わされることになるのだ。
これ以上話を続けようとすると、難しい数学の話になってしまいそうなのでやめようと思うけれど、結局のところ、人間には「1(在る)」か「0(無い)」かという状態を単なる数の序列と考えるということは不可能であるようだ。
2010年8月15日日曜日
清滝川二回目
2010年8月11日水曜日
midi出力
JEditでmidi出力のやり方を理解したあとで、それをアップロードしようと思ったのですが、このブログはどうやら映像しかダメらしかったので、仕方なく自作することにしました。iMovieを使うとうまくいきます。
2010年8月10日火曜日
LilyPond復活
2010年8月8日日曜日
植物たちについて
朝っぱらからこんなブログを打つなんていうのは
よほど暇なことだろうとお思いでしょう。
そのとおりです!
朝起きたら僕は必ず自分で育てている植物に水を与えます。
彼らは花屋さんなどでは手に入らない種類ばかりです。
バオバブとか・・・玉露の木とか・・・
僕は樹が大好きです。
もちろん花が綺麗な樹ですが、
彼らの生き方にとても惹かれるものがあります。
彼らの成長は驚くほど劇的です。
ひとつの枝の葉がみんな枯れても、
すぐ別のところから同じような、
しかし以前とは違う場所に
葉の芽が出てくるのです。
彼らの葉は日々黒々としてきて、
体液が活発に出入して
光を栄養に変えようという
強い意志が垣間見えます。
夏は日光をほどほどに、
水をたっぷりとかけてあげます。
昼の夏の猛暑にくたくたになっていても、
夕に涼しくなればまたすぐに回復します。
毎朝見るにつけ、
彼らのたくましさに感動せずに入られません。
何日か後に、彼らの喜ぶ姿が痛いほどわかるものなのです。
彼らの健気さには心うたれるものがあります。
彼らの物腰は静かですが、
しかし、しっかりとした意見も持っているようです。
彼らはしっかりと、
小さいながらも自分の鉢に根をおろし、
その強靭な生命力で生き抜いているのです。
僕は
そんな彼らのような人間になりたいと毎朝思うのです。
よほど暇なことだろうとお思いでしょう。
そのとおりです!
朝起きたら僕は必ず自分で育てている植物に水を与えます。
彼らは花屋さんなどでは手に入らない種類ばかりです。
バオバブとか・・・玉露の木とか・・・
僕は樹が大好きです。
もちろん花が綺麗な樹ですが、
彼らの生き方にとても惹かれるものがあります。
彼らの成長は驚くほど劇的です。
ひとつの枝の葉がみんな枯れても、
すぐ別のところから同じような、
しかし以前とは違う場所に
葉の芽が出てくるのです。
彼らの葉は日々黒々としてきて、
体液が活発に出入して
光を栄養に変えようという
強い意志が垣間見えます。
夏は日光をほどほどに、
水をたっぷりとかけてあげます。
昼の夏の猛暑にくたくたになっていても、
夕に涼しくなればまたすぐに回復します。
毎朝見るにつけ、
彼らのたくましさに感動せずに入られません。
何日か後に、彼らの喜ぶ姿が痛いほどわかるものなのです。
彼らの健気さには心うたれるものがあります。
彼らの物腰は静かですが、
しかし、しっかりとした意見も持っているようです。
彼らはしっかりと、
小さいながらも自分の鉢に根をおろし、
その強靭な生命力で生き抜いているのです。
僕は
そんな彼らのような人間になりたいと毎朝思うのです。
2010年8月7日土曜日
締切り
締切りというのは物書きにとっての永遠の課題だと思います。
何を書くにも締切りというものは必ずやってきます。あと何日あるかと数えるたびにものすごいプレッシャーだと常々思います。
プレッシャーをはねのけて、その締切りでさえも楽しみのうちと思えるようになったら、物書き冥利につきるのかもしれません。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
自分で好き勝手に書いているときはそれでいいのですが、何か人に読んでもらうために書くという段になると、やはり読む人が誰なのか?何を思って読まれるか?ということを深く考える必要があるんですよね。難しい。
何を書くにも締切りというものは必ずやってきます。あと何日あるかと数えるたびにものすごいプレッシャーだと常々思います。
プレッシャーをはねのけて、その締切りでさえも楽しみのうちと思えるようになったら、物書き冥利につきるのかもしれません。
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自分で好き勝手に書いているときはそれでいいのですが、何か人に読んでもらうために書くという段になると、やはり読む人が誰なのか?何を思って読まれるか?ということを深く考える必要があるんですよね。難しい。
2010年8月6日金曜日
DNA
2010年8月5日木曜日
物書きの業
続けて二つ記事を書いてみてわかったのですが、思ったことを文章にすることは最近慣れてきたとしても、それを膨らませるという技術の無さを骨身に感じます。。。
本を書くって本当に大変なことなんだなぁ・・・
本を書くって本当に大変なことなんだなぁ・・・
インターネットという妄想
最近殊更人に言われることなのですが、しっかりと足元を確かめて歩きなさいということです。簡単なことのようで、普段から習慣化していないと自分が今どこを歩いているか、人は簡単に見失う危険性があります。年寄りが言う「若い」という言葉は、その現実感のなさに対する皮肉交じりの警告なのでしょう。フィールズ賞を受賞された数学者の小平さんの時代から、「今の人は妄想が多すぎる」と言われていたようですが、インターネットの登場によって、その「妄想感」は一気に加速したように思えるのは気のせいでしょうか?確かにそこら辺に落ちている情報を自分の気の赴くままひろって調理するのは楽しいことですが、それがどこからの情報だったかを吟味することなく、ただ乱暴に人に言いふらすというのを続けていると、その妄想のうちに自分の信用を失ってしまうことになりかねません。インターネットというのは情報を簡単に拾いそして捨てることができます。それは或る面ではとても「利便性」にかなったものだと言えますが、反面、どうしても自分を見失う危険性があるとも思います。また、「ヲタク」という人種がもてはやされているようですが、その弊害として、一般常識から逸脱してしまい、社会に適合できないということが挙げられます。酔うのは自由ですが、その種はいつか刈り取られるでしょう。情報に対して、受け取る側も発信する側ももっと責任をもつことが、この情報化社会の中で信用を失わない条件だと思います。
距離
今ルームシェアをしたり、いきつけのカフェの人たちと交流する中で思うのは、逃げられない人間関係の中でどのように近い人達と距離を保つかということだ。インターネットが普及してしばらくたった現在、人と人との距離は驚くほど小さい。近づくのは一昔前の通信機器の時代からすると遥かに簡単だ。特に忍耐はいらない。気に入らなければ、スイッチを切りさえすればいいのだ。なんとお手軽な関係だろうか。しかも、日常生活の中ではインターネットと違ってそういう距離感が必要なことについては普通誰も注意してくれはしない。しかし、こういうふうに近すぎるインターネット世代にこそ、互いの距離感というのは求められているように思われる。というのは通信機器の進歩というのは、物理的な距離をそのままに精神的な距離を縮めるという感覚の「誤差」が必然的に生まれることになるからだ。日常の人間関係において、互いに距離をおくということに何の注意も払わないのはかなり危険なことだ。ルームシェアをしていると、そのメンバーとは共有する時間も多いが、不満が募ると、その不安をぶつけ合う危険性もまた増すことに気がつく。距離が近いということはそれだけミスを犯す可能性も高くなり、ストレスが俄然生じやすい。ミスをすぐ許しあえれば問題ないかもしれないが、それを言いたい放題言うとただただカオスになるだけだ。これは何もルームシェアだけではなくて、研究室で生活する際の人間関係や、職場での人間関係、将来結婚をしたとして、子どもが生まれたときまでには絶対に備えておかねばならないスキルだ。子供に言いたい放題言ったとしてもそれは解決には絶対に結びつかないからだ。あえて距離を保つという選択肢も必要ということになる。言いたいことを言いたい放題いうのはやめて、互いに本当に伝えたい事を忍耐を持って選ぶ、そして、相手にわかるように正しく伝えるという当たり前のことが見直される。
親しき仲にも礼儀ありということですね。
親しき仲にも礼儀ありということですね。
2010年7月31日土曜日
夏の予定
実家に帰らないで、京都で勉強していることにしました。
図書館を使ったり、数学合宿に出たりで、
落ち着いた日々を過ごすことに専念しようと思います。
考えてみると、実家に帰らない夏は初めてかもしれない。
図書館を使ったり、数学合宿に出たりで、
落ち着いた日々を過ごすことに専念しようと思います。
考えてみると、実家に帰らない夏は初めてかもしれない。
2010年7月30日金曜日
2010年7月27日火曜日
Mathematica Début
2010年7月24日土曜日
2010年7月23日金曜日
Gimp
2010年7月22日木曜日
岡潔 日本の心
2010年7月20日火曜日
扇風機サマサマ
扇風機がこのルームシェアを始めて3年目にしてようやく購入された。(購入したのは僕だけど)。これによってうだる暑さがかなり半減された。今までは熱がこもるこの魔窟のような家に耐えていたが、なけなしの1500円をだして固く決意し、買った。(夏に勝った)。
新たな習慣
2010年7月17日土曜日
フラクタル遊び
2010年7月16日金曜日
首都機能移転
MacBookでしようしていたフリーソフトの中で、
有用性の高いものをサーバーに移し替えました。
Gimp TeXShop Inkscape Maxima vxMaxima blender R
などです。
TeXShopの設定は非常に難しく普通0からやったら1日費やす作業でしたが、過去何回も失敗していて、だいたいどこで失敗しているかをわかっており、成功したMacBookのパスをそのまま移したので、非常に短時間で済んでほっとしています。ほかのソフトはただ移し替えるだけでした。これからパソコンの機能をほぼサーバーに移し替えることによって、より「パソコン離れ」に尽力しようと思っています。個人的には今あげたソフトは非常に使いやすく、数学を勉強したり、創造的なことをしたい人向けのアプリケーションになっています^^
有用性の高いものをサーバーに移し替えました。
Gimp TeXShop Inkscape Maxima vxMaxima blender R
などです。
TeXShopの設定は非常に難しく普通0からやったら1日費やす作業でしたが、過去何回も失敗していて、だいたいどこで失敗しているかをわかっており、成功したMacBookのパスをそのまま移したので、非常に短時間で済んでほっとしています。ほかのソフトはただ移し替えるだけでした。これからパソコンの機能をほぼサーバーに移し替えることによって、より「パソコン離れ」に尽力しようと思っています。個人的には今あげたソフトは非常に使いやすく、数学を勉強したり、創造的なことをしたい人向けのアプリケーションになっています^^
新しいキーボード
ルームメイトからもらったキーボードには[]がついていなくて、結局Mac Proのキーボードを購入しました。押し心地は良好で、買ってよかったと思いました。これで、いちいちブログを更新したりするのにMacBookをつかわなくてよくなり、或は、gnuplotなどの作業もサーバーから行えるので、かなり快適になりました。MacBookhはできるだけ使用しない方向で検討しようと思います。
やっとこちらで使用できるようになり、パソコンをつけたり消したりする手間がかなり省かれました。サーバーは基本的につけっぱなしでも電力消費が少ないので、非常にお得です。
wxMaximaに関していうと、確かにプロットの手間だけならMaxmaを使えばおわりなのですが、ほかの数式の計算を考えると日本語の項目がついていてわかりやすい方が良いかもしれないと判断したためです。(アーうちやすい)
なので、その両方を使い分けるという風にした方が具合が良さそうだと判断しました。
どちらにしても、今日の出来事によって、かなり使用環境が改善されたといえるので、とてもうれしいです^^
『科学者と考える』
3パラメター問題解消!
極座標にパラメターを設定してあげれば自由度2の曲面を自由に3次元にプロットすることができるとわかりました。昨日の問題はこれでほぼ解決しました。
このグラフはSteiner Phaseになるはずの式でしたが、原因が掴めず今のところうまくSteiner Phaseにはなっていません。あとでまた挑戦してみようと思います。わかったのは自由度3の曲面を3次元にプロットする事はできないということ(アタリマエですが。。。)。一つ賢くなりました。
set size ratio 2
set isosample 128,128
set parametric
set hidden3d
set xyplane 0
set pm3d at s
set view 80,20
unset tics
Y(u,v) = 3*(sin(u)**2*cos(v)**2*sin(u)**2*sin(v)**2+sin(u)**2*cos(v)**2*cos(v)**2+sin(u)**2*sin(v)**2*cos(u)**2 -17*sin(u)*cos(v)*sin(u)*sin(v)*cos(u));
x(u,v) = Y(u,v)*sin(u)*cos(v)
y(u,v) = Y(u,v)*sin(u)*sin(v)
z(u,v) = Y(u,v)*cos(u)
splot [-pi:pi] [-pi:pi] x(u,v) , y(u,v) ,z(u,v) with lines notitle
原点回帰しました。一度set parametricを打つとそのwindowが閉じられるまでparametricは有効なままであるという事がわかりました(面倒くさい。。。)
これで一応今日はやめにしようと思います。
最後はMaximaで動かしました。wxMaximaは破棄しました。
しかし、なんでMaximaでつくるとこんなに綺麗なんだろうか・・・
先ほど不具合が起きて、Maximaでグラフが書けなかったんですが、再インストールして復活しました。アプリケーションの状態は暫くこれで保存しようと思います。今日も3時間くらいやっていました。まだ使えていない機能も沢山ありますが、とりあえず、暫くおいておこうと思います。『Gnuplot in Action』が欲しい今日この頃です。
plot3d(
[5*sin(x)*cos(y)*(sin(x)^2*cos(y)^2*sin(x)^2*sin(y)^2+sin(x)^2*cos(y)^2*cos(y)^2+sin(x)^2*sin(y)^2*cos(x)^2 -17*sin(x)*cos(y)*sin(x)*sin(y)*cos(x)),
5*sin(x)*sin(y)*(sin(x)^2*cos(y)^2*sin(x)^2*sin(y)^2+sin(x)^2*cos(y)^2*cos(y)^2+sin(x)^2*sin(y)^2*cos(x)^2 -17*sin(x)*cos(y)*sin(x)*sin(y)*cos(x)),
5*cos(x)*(sin(x)^2*cos(y)^2*sin(x)^2*sin(y)^2+sin(x)^2*cos(y)^2*cos(y)^2+sin(x)^2*sin(y)^2*cos(x)^2 -17*sin(x)*cos(y)*sin(x)*sin(y)*cos(x))],
[x,-%pi,%pi],[y,-%pi,%pi],['grid,40,40]);
--------------------------------------------------------------
wxMaximaにどうやらopenmathが入っているらしいとわかり、結局インストールして設定しました。色々問題は合ったものの何とかopenmathによるプロットを完了。こんな感じでした。
今日もまた沢山進歩したので、これでよしとしようと思います。
5*cos(x)*(cos(x/2)*cos(y)+sin(x/2)*sin(2*y)+3.0)-10.0,
-5*sin(x)*(cos(x/2)*cos(y)+sin(x/2)*sin(2*y)+3.0),
5*(-sin(x/2)*cos(y)+cos(x/2)*sin(2*y))
2010年7月15日木曜日
途中経過
GeomviewはteTeXのインストールが失敗したために、一度インストールを断念しました。
9割方うまく行っていたと思っていた問題も、最後の詰めでこのように失敗する事は沢山ありそうです。
今取り組んでいるのは3変数の曲面の表示をどうするかという問題です。
これによって、「Steinerのローマ曲面」を表現したいと思っています。
式としては x**2*y**2+x**2*z**2+y*2*z**2-17*x*y*z
なのですが、パラメターで処理できるのは2つまでで、3つ目はうまくいかない。
これをどうするかという問題を、しばらく考えてみたいと思っています。
他にもいくつかやりたいことはみつけるつもりですが、当面の問題としてはこの問題が残ると思われます。
9割方うまく行っていたと思っていた問題も、最後の詰めでこのように失敗する事は沢山ありそうです。
今取り組んでいるのは3変数の曲面の表示をどうするかという問題です。
これによって、「Steinerのローマ曲面」を表現したいと思っています。
式としては x**2*y**2+x**2*z**2+y*2*z**2-17*x*y*z
なのですが、パラメターで処理できるのは2つまでで、3つ目はうまくいかない。
これをどうするかという問題を、しばらく考えてみたいと思っています。
他にもいくつかやりたいことはみつけるつもりですが、当面の問題としてはこの問題が残ると思われます。
Maximaとの連携成功!
朝の短い時間でクラインの壺(Klein bottle)ができるとは思わなかった。
しかし、色々試行錯誤した結果、Maximaにより"クラインの壺"(Klein bottle)をつくることができました!!!
凄い感動・・・
これは逆さまにしたもの。
plot3d(
[5*cos(x)*(cos(x/2)*cos(y)+sin(x/2)*sin(2*y)+3.0)-10.0,
-5*sin(x)*(cos(x/2)*cos(y)+sin(x/2)*sin(2*y)+3.0),
5*(-sin(x/2)*cos(y)+cos(x/2)*sin(2*y))],
[x,-%pi,%pi],[y,-%pi,%pi],['grid,40,40]);
によってMaxima(wxMaximaは使いこなせませんでした・・・)でgnuplotと連携させる事により、こういった複雑な図形をプロットする事ができるとわかり、かなり感動しています。
と言ってもまだトポロジーを理解しているわけではないので、クラインの壺がどのような図形であるかを掴みきれていないのですけど。
しかし、なにはともあれ、プロットということに関してかなり希望が持てるようになった瞬間でした!
連携させないで直接出力させようとすると、こんな感じになります。
set size square
set isosample 128,128
set parametric
set hidden3d
set xyplane 0
set pm3d at s
set contour base
set view 30,60
set cntrparam cubicspline
set cntrparam points 3
set cntrparam levels incremental -1, 0.1, 1
unset tics
x(u,v) = 5*cos(u)*(cos(u/2)*cos(v)+sin(u/2)*sin(2*v)+3.0)-10.0
y(u,v) =-5*sin(u)*(cos(u/2)*cos(v)+sin(u/2)*sin(2*v)+3.0)
z(u,v) = 5*(-sin(u/2)*cos(v)+cos(u/2)*sin(2*v))
splot [-15:15] [-15:15] x(u,v) , y(u,v) ,z(u,v) with lines notitle
という感じになります。
Geomviewに目をつけましたが、インストールがうまくいかなかったので、
今度にしようと思います。
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wxMaximaでの出力に帰宅後成功しました。出力結果はこんな感じです。
まだ、調整が出来ていないのでかなりノイズが多いですがご容赦下さい。
MacPortsも一旦uninstallしてから再インストール。
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