2010年10月4日月曜日

徒然なるままに・・・

もう10月。9月は記事を3つしか書かなかった。。。

考えてみると、何も考えていなかったことが分かります。。。

製作中の曲も一段落し、さて、練習してみようかと思って楽譜を見たら、自分の技量を遥かに超えるものを作ってしまっていて、何も出来ないでいる体たらく。。。

とりあえずは、僕の文章に対する考えを少し書いてみようと思う。

日本語には助詞というのがあり、そのニュアンスによって、いろいろな表現ができる。しかし、英語にはそれがないのでかなりデジタルになってしまう。単語と単語のデジタルな表示から意味を汲み取るというのは訓練しないととてもできるものではないと思う。しかし、人はどうしてただの文字の連なりから、他の人の感情を読み取ることができるのだろうか?これは考えてみるととても高度な作業であるように思う。

 たとえば、小説を読む。すると、すごく臨場感があり、ハラハラしながら次から次へとページを繰っていくときの高揚感はなんともいえないものだと思う。その気持を他の人と共有したいときは「こんな箇所(表現)があって〜」というふうになるとおもうが、しかし、考えてみると、それは読んだものにしか共有できないし、同じようなイメージを想像出来る人間でなければ、会話自体が全く意味が無いものになってしまうだろう。外国人が日本の長屋をしっていないと長屋という単語が出てきたときに、そのイメージが全くわかないので、おそらく不快感が少しにじむのではなかろうか?

 表現というのはおかしなもので、ものすごい情報量のものをただの数十字とか数百字の文字の連なりに圧縮してしまう。擬音語とか擬態語とかはその典型だろう。圧縮された情報を復元するためには、受け手がそれを解読して、膨らませる技術がなければ、当然圧縮された暗号のような文字しかわからないのだ。表現というのは無限に近い情報量を如何に圧縮して、しかもそれを受け手の想像力に委ねてもまた同じように再生できるかということが大きなウエイトを占めているように思えてならない。


アイディアを詰め過ぎると、受け手の想像力が追いつかないがために、評価されない。


なので、受け手の許容量を把握して表現する技術を身につけるということがうまい文章を書くということにつながるのだと思う。




そう考えると、芭蕉という人の17文字に込めた情景は色鮮やかに脳裏に映る。

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