2010年8月15日日曜日

清滝川二回目
















































今回は雨が降り、上がったと思ったらきりが出てきた。
水も冷たく、体がすぐに冷えてしまった。
夏の暑さを忘れるのにはもってこいだったが、
もう夏も終りが近い、と感慨にふけっていた。

廃屋も寂しそうにしていた。

竹林の下に敷き詰められていた竹の葉もいくらか色が穏やかになっていた。



川霧の 水面に溶けて 蝉の声

雨足を 過ぎるのを待ち 擬宝珠(ぎぼし)の葉

2010年8月11日水曜日

midi出力

JEditでmidi出力のやり方を理解したあとで、それをアップロードしようと思ったのですが、このブログはどうやら映像しかダメらしかったので、仕方なく自作することにしました。iMovieを使うとうまくいきます。

2010年8月10日火曜日

LilyPond復活



最初はこんなもの。使いやすいエディターを発見したので、使ってみる事にしました。無料でこんなに綺麗な楽譜が書けてしまうソフトです。まだ八分音符などは書けませんが、探るのが楽しくてしょうがないソフトの一つです。

2010年8月8日日曜日

植物たちについて

朝っぱらからこんなブログを打つなんていうのは
よほど暇なことだろうとお思いでしょう。



そのとおりです!





朝起きたら僕は必ず自分で育てている植物に水を与えます。

彼らは花屋さんなどでは手に入らない種類ばかりです。
バオバブとか・・・玉露の木とか・・・

僕は樹が大好きです。
もちろん花が綺麗な樹ですが、
彼らの生き方にとても惹かれるものがあります。

彼らの成長は驚くほど劇的です。
ひとつの枝の葉がみんな枯れても、
すぐ別のところから同じような、
しかし以前とは違う場所に
葉の芽が出てくるのです。

彼らの葉は日々黒々としてきて、
体液が活発に出入して
光を栄養に変えようという
強い意志が垣間見えます。

夏は日光をほどほどに、
水をたっぷりとかけてあげます。

昼の夏の猛暑にくたくたになっていても、
夕に涼しくなればまたすぐに回復します。

毎朝見るにつけ、
彼らのたくましさに感動せずに入られません。

何日か後に、彼らの喜ぶ姿が痛いほどわかるものなのです。

彼らの健気さには心うたれるものがあります。

彼らの物腰は静かですが、
しかし、しっかりとした意見も持っているようです。

彼らはしっかりと、
小さいながらも自分の鉢に根をおろし、
その強靭な生命力で生き抜いているのです。


僕は

そんな彼らのような人間になりたいと毎朝思うのです。

2010年8月7日土曜日

締切り

締切りというのは物書きにとっての永遠の課題だと思います。

何を書くにも締切りというものは必ずやってきます。あと何日あるかと数えるたびにものすごいプレッシャーだと常々思います。


プレッシャーをはねのけて、その締切りでさえも楽しみのうちと思えるようになったら、物書き冥利につきるのかもしれません。


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自分で好き勝手に書いているときはそれでいいのですが、何か人に読んでもらうために書くという段になると、やはり読む人が誰なのか?何を思って読まれるか?ということを深く考える必要があるんですよね。難しい。

2010年8月6日金曜日

DNA













朝、化学分子の構造をちょっと理解してみようと、
インターネット上に化学構造を創作できるソフトが無いか探してみたら三つくらいありました。


最初はサンプルでついていた水分子をくるくるするだけだったのですが、
データベース化された化学構造のファイルがあることがわかり、DNAの分子をたまたま発見してやはりくるくるして遊んでいました。



後の方では炭素を切り貼りして遊べた感じがするのですが、はっきりしたことはわかりません。

2010年8月5日木曜日

物書きの業

続けて二つ記事を書いてみてわかったのですが、思ったことを文章にすることは最近慣れてきたとしても、それを膨らませるという技術の無さを骨身に感じます。。。


本を書くって本当に大変なことなんだなぁ・・・

インターネットという妄想

最近殊更人に言われることなのですが、しっかりと足元を確かめて歩きなさいということです。簡単なことのようで、普段から習慣化していないと自分が今どこを歩いているか、人は簡単に見失う危険性があります。年寄りが言う「若い」という言葉は、その現実感のなさに対する皮肉交じりの警告なのでしょう。フィールズ賞を受賞された数学者の小平さんの時代から、「今の人は妄想が多すぎる」と言われていたようですが、インターネットの登場によって、その「妄想感」は一気に加速したように思えるのは気のせいでしょうか?確かにそこら辺に落ちている情報を自分の気の赴くままひろって調理するのは楽しいことですが、それがどこからの情報だったかを吟味することなく、ただ乱暴に人に言いふらすというのを続けていると、その妄想のうちに自分の信用を失ってしまうことになりかねません。インターネットというのは情報を簡単に拾いそして捨てることができます。それは或る面ではとても「利便性」にかなったものだと言えますが、反面、どうしても自分を見失う危険性があるとも思います。また、「ヲタク」という人種がもてはやされているようですが、その弊害として、一般常識から逸脱してしまい、社会に適合できないということが挙げられます。酔うのは自由ですが、その種はいつか刈り取られるでしょう。情報に対して、受け取る側も発信する側ももっと責任をもつことが、この情報化社会の中で信用を失わない条件だと思います。

距離

今ルームシェアをしたり、いきつけのカフェの人たちと交流する中で思うのは、逃げられない人間関係の中でどのように近い人達と距離を保つかということだ。インターネットが普及してしばらくたった現在、人と人との距離は驚くほど小さい。近づくのは一昔前の通信機器の時代からすると遥かに簡単だ。特に忍耐はいらない。気に入らなければ、スイッチを切りさえすればいいのだ。なんとお手軽な関係だろうか。しかも、日常生活の中ではインターネットと違ってそういう距離感が必要なことについては普通誰も注意してくれはしない。しかし、こういうふうに近すぎるインターネット世代にこそ、互いの距離感というのは求められているように思われる。というのは通信機器の進歩というのは、物理的な距離をそのままに精神的な距離を縮めるという感覚の「誤差」が必然的に生まれることになるからだ。日常の人間関係において、互いに距離をおくということに何の注意も払わないのはかなり危険なことだ。ルームシェアをしていると、そのメンバーとは共有する時間も多いが、不満が募ると、その不安をぶつけ合う危険性もまた増すことに気がつく。距離が近いということはそれだけミスを犯す可能性も高くなり、ストレスが俄然生じやすい。ミスをすぐ許しあえれば問題ないかもしれないが、それを言いたい放題言うとただただカオスになるだけだ。これは何もルームシェアだけではなくて、研究室で生活する際の人間関係や、職場での人間関係、将来結婚をしたとして、子どもが生まれたときまでには絶対に備えておかねばならないスキルだ。子供に言いたい放題言ったとしてもそれは解決には絶対に結びつかないからだ。あえて距離を保つという選択肢も必要ということになる。言いたいことを言いたい放題いうのはやめて、互いに本当に伝えたい事を忍耐を持って選ぶ、そして、相手にわかるように正しく伝えるという当たり前のことが見直される。


親しき仲にも礼儀ありということですね。