2011年7月4日月曜日

結婚祝い。




友達の結婚祝いに絵を制作。
本当におめでたい出来事だと思い、今までかかってしまいましたが、制作を終えました。

画力が落ちてしまっていましたが、できるだけ無駄を省く事を意識して、気持ちを込めて描きました。

2011年3月12日土曜日

Ustreamとネットワーク

昨日友人に地震の際Ustreamというサイトでリアルタイムでテレビを視聴する事が出来るということを教えてもらった。

このネットワーク網がメジャーになるとネットワークがもっと重要な意味をもつと思われる。
今までは緊急の情報はラジオや電話、テレビなどを使用しないと新しい情報を手に入れることはできなかった。しかし、インターネットがつながってさえいれば、リアルタイムでテレビの情報をキャッチできる。また、設備的なものを見ても、もはやテレビを大多数の人が必要としなくなる。それどころか、パソコン用のテレビチューナーすらも必要ない。必要なのはインターネットの回線環境とそれを接続してみることができる情報端末機器だけだということだ。今は100Mというのが地方の平均速度だが、これが1Gまで東京と同じように伸びるなら、快適にテレビの情報をキャッチできる状況が出来つつある。Ustreamというサイトがどのようにして、インターネットに配信しているのかはわからないが、テレビ局が正式にこのサイトと契約したとすれば、もはやテレビという機械は全く必要なくなる。つまり、これはテレビがパソコンに吸収された瞬間を意味する。あるいは、携帯電話もアンドロイドやiPhoneなどが登場した事によって、Ustreamを見る事が出来るので、近くにいる誰かがこれを持っていれば、情報を緊急時にもっと沢山、速く手に入れられる。これは被害を受けている人だけではなくて、それを助ける人にとってとても良い事かもしれない。回線の速度がもっと速くなれば、ストレス無く快適に情報をキャッチできる。これによって、誰もが緊急の物資を受け取る事が出来たりして、被災する人の精神的なよりどころになってくれそうな気配がする。

今回の地震の被害というのは余震や津波がまだまだ続く事を考えると、もっと被害は拡大する傾向にあるが、このUstreamというサイトがもたらす影響というのは小さくないと思う。

2010年12月25日土曜日

今年の年賀状



正月は実家に帰るので、また遅くなっても何なので先に新年あけましておめでとうございます。と前もって申し上げておきます。




昨年はどうもいろいろな方にお世話になりました。
心の底から感謝しております。


これは鳥獣戯画から選んで描いたのですが、
笑う門には福来るともかけております。

本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。

2010年10月17日日曜日

最近の願い

変な人になるのは案外簡単かもしれない。

僕の大学にいると

変な人であることがまるで良いことのように思われがちである。

実際そういう人もいる。



しかし、僕はまともでありたいと思う。

2010年10月16日土曜日

寺町日巡

今日は中高を共にした友達が東京からこっちに寄ってくれたので、寺町を案内することになった。

ご飯をと言われたのだが、寄ってくれたのはわざわざゆっくり話す時間を作ってくれたということだろうから、料理屋で話すのも何だと思い、寺町にある一保堂さんで玉露を飲みながら話そうと思い立った。

しかし、腹も膨れていないと胃がきついので適当に料理屋を探そうと近辺を自転車で散策した。

少し暑いくらい。快晴。


料理屋を探していたら裏通りの家具屋街に行き着いてしまって、あーあと思っていたら、小さいギャラリーを発見した。


ガラス越しに中が全部透けて見えた。
大きな絵などひとつもなく、なんだか色とりどりの小さい額縁の中に花が一輪あるだけ。何も観るものはないとそのまま通りすぎようとした。


しかし、おや?と思い、自転車を止めた。

こんな奥まったギャラリーでこんなに単純な展示というのがちょっと面白そうだったからだ。
あまり深くは考えなかったけれど、なにかあるぞと思いとりあえず中に入った。

そうするとやっぱり額縁に一輪花があるだけ。だけど、見たこともない感じがして綺麗だった。額は非常に立体的で、余白が計算されているのが素人でもわかる。作品と余白の境界線が立体的な局面で造られていて独特だ。

アーティストの人に話を聞いてみた。

すると、この見たこともない額縁の手法はフランスのロマンティックビュローという方法で作られているとおっしゃった。

「この額縁の余白は微妙な調整がされていて、余白に使われている紙は私の手法を使えばなんでもいいんですよ^^例えば外国でちょっと行った先の目に止まった綺麗なチラシでも、和紙でもなんでも縁の余白にできるんです。」

確かに額縁自体は非常にシンプルだったが、緻密に計算されていて、しかもそんなふうに万能な感じがすごいなぁと思った。


額縁のアーティストだった。

中身の絵に拘る人は多い。みんな一生懸命絵を描く。

しかし、描いたあとでそれを額縁に収めたいという欲求は誰しも起こるのではなかろうか?
それが、その絵のためだけの額縁で余白がその絵にぴったりならその絵も冥利に尽きるのではないだろうか?

すごく新鮮な感じがして話の続きを聞く。

「縁を強調したかったから、花を一輪だけにしましたが、この花も実は一工夫あるんですよ^^」

花は色鮮やか。普通のドライフラワーのようでいて形は咲いた時のままだ。
まるで今咲いているような柔らかさがある。

「この花は特殊な加工がされていて、一旦色を脱色して、形を保存したあとにまた色をつけるんですよ。確かに花の元の色とは違うものになるんですが、記憶を保存することはできますよ^^たとえば結婚式で貰ったブーケ。普通花は数日で終わりですね?でもその花で保存できるものをこうやって一輪インテリアにするだけできっと何年か先でも花は色鮮やかでの人生の彩りも変わってくるんじゃないでしょうか?素敵だと思いません?^^」

確かに、結婚式で貰ったブーケだとはとても思えない生活感があって、自然に部屋に溶け込みそうだ。

そういう風に人生の一ページを残せて置けたらおしゃれだなぁと思ってひどく感動した。

額ひとつとっても、花一輪とっても、人の思いを詰め込むことができるのだとわかった。
僕ももっと生活の身の回りの一つ一つにかける手間や工夫にもっと具体的にどうするかというのを考えたら楽しめそうだと教えてもらった気がする。何気ない部分に手間が隠れていたほうがきっと人生は面白い。(このブログもそんな感じになってくれたら楽しいなぁ・・。)


友達の待ち合わせには5分遅刻してしまった。

2010年10月4日月曜日

文章に対する願い

なんだかんだいって、多くの人が癒される文章を書いてみたいんです。

徒然なるままに・・・

もう10月。9月は記事を3つしか書かなかった。。。

考えてみると、何も考えていなかったことが分かります。。。

製作中の曲も一段落し、さて、練習してみようかと思って楽譜を見たら、自分の技量を遥かに超えるものを作ってしまっていて、何も出来ないでいる体たらく。。。

とりあえずは、僕の文章に対する考えを少し書いてみようと思う。

日本語には助詞というのがあり、そのニュアンスによって、いろいろな表現ができる。しかし、英語にはそれがないのでかなりデジタルになってしまう。単語と単語のデジタルな表示から意味を汲み取るというのは訓練しないととてもできるものではないと思う。しかし、人はどうしてただの文字の連なりから、他の人の感情を読み取ることができるのだろうか?これは考えてみるととても高度な作業であるように思う。

 たとえば、小説を読む。すると、すごく臨場感があり、ハラハラしながら次から次へとページを繰っていくときの高揚感はなんともいえないものだと思う。その気持を他の人と共有したいときは「こんな箇所(表現)があって〜」というふうになるとおもうが、しかし、考えてみると、それは読んだものにしか共有できないし、同じようなイメージを想像出来る人間でなければ、会話自体が全く意味が無いものになってしまうだろう。外国人が日本の長屋をしっていないと長屋という単語が出てきたときに、そのイメージが全くわかないので、おそらく不快感が少しにじむのではなかろうか?

 表現というのはおかしなもので、ものすごい情報量のものをただの数十字とか数百字の文字の連なりに圧縮してしまう。擬音語とか擬態語とかはその典型だろう。圧縮された情報を復元するためには、受け手がそれを解読して、膨らませる技術がなければ、当然圧縮された暗号のような文字しかわからないのだ。表現というのは無限に近い情報量を如何に圧縮して、しかもそれを受け手の想像力に委ねてもまた同じように再生できるかということが大きなウエイトを占めているように思えてならない。


アイディアを詰め過ぎると、受け手の想像力が追いつかないがために、評価されない。


なので、受け手の許容量を把握して表現する技術を身につけるということがうまい文章を書くということにつながるのだと思う。




そう考えると、芭蕉という人の17文字に込めた情景は色鮮やかに脳裏に映る。